タンデムと僕と春の休日

この日は仕事休み。外は贅沢なくらい初夏を感じる太陽の日差しが降り注ぐとてもいい天気だ。。
冬の間ほとんど乗れなかった愛車のタンデムを洗車してあげることにした。。
タンデムはシートをかぶったまま庭の隅に置いてある。
大きなシートをめくるとちょいとすねた顔のタンデムがいた。
うっすらと埃のついたフレームを指でなぞり僕は、ごめんよとタンデムにいった。
水の入ったバケツに新しいタオルをしたしてよく水をしぼった。
そのタオルで母親が赤子の顔を拭くかのごとくフレームや車輪を丁寧に磨いて上げた。
さっきまですねていた顔のタンデムが元の凛々しい姿になっていく。
「今すぐにでも走りたいよ」と言うタンデムの声が聞こえたような気がした。何度も何度も。
僕はそんなタンデムの主張にちょいと切ない気持ちにさせられた。
パイロットがいなければ走らせてあげることができないこと。
と、同時に乗ることのできない僕のもどかしい気持ちが交差した。
でもそんな複雑な思いもタンデムがピッカピッカになった頃には晴れていた。
空から降り注ぐ太陽の日差しとそよそよと吹く風の心地よさに、これから始まるシーズンに旨が高まるタンデムと僕であった。
そこにタンデムがいたから、こうして外に出ることができた。
僕は、大きなシートを丁寧に磨き上げたタンデムにかぶせながら「ありがとうよ」と、タンデムに向かって言った。
バケツを片付ける足元に手をはわせるとシャクナゲの花が咲いていた。
続く
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交差点戦争

拡張工事とコンビニの建設が進む通勤途中の交差点の続きである。
何も不幸自慢をしているわけではない。
日常で全盲の僕が危険だなと感じた思いを書き記しているだけである。
そして僕のように町の不自由を感じている障害者は五万といるはずだ。
中には、「逐次、そんなこと気にしていられる会」と寡黙で前向きな障害者もいることも事実だ。
世間はそうした人を「えらいねー」と評価する。
僕もそうした姿勢は見上げたものだと思うが別段えらいとは思わない。
誰かが伝えなければならないことを僕はブログに書き記しているのである。

古くから当人の素直な心の動きを綴ったものを日記といって、それを公開したものをブログというんです。
さて、前置きが長くなったけれど、工事中の交差点をわざわざ通らなくても回り道をすればいいだろうにという感想をいただいた。
確かにそれができたら苦労せずにすむのであるが、できないから苦労しているわけである。
真っ直ぐな県道を回り道するには1km先の横断歩道まで行き歩道のない県道を戻ることになる。
ひとつの手だてがある。
それは横断歩道のない場所を横切ることだ。
強行できないこともないだろうけれど、白杖のジジイを引いた車の運転手さんが気の毒であるし、僕もそんなとこで死にたくない。

そんなわけで僕の中の交差点戦争は続いている。

神様が舞い降りたあの交差点

去年の11月から始まった通勤途中の交差点の拡張工事がまだ続いてる。
毎日の通勤の朝の交差点には相変わらず重機の音が響く。
そこに最近、コンビニの建設工事が始まった。
右から左からゴーゴー、ガーガー、まるでその音は戦場のごとくだ。
音響信号機もなければ点字ブロックもなく、人通りはほとんどない難易度マックスの難所だ。
車が往来する気配は重機の音にかき消されほとんど聞こえない。
最近は、停止中にエンジンが切れる車が増えたこともあって、それに気づかずに横断歩道を渡り始めると車が急に動き出して危うく引かれそうになったことも多々ある。
神様は、この白杖のジジイにどれだけの試練を与えれば気がおすみになるのかと思いたくなる日もある。
その朝もそんな心持ちでその交差点に白杖を向けていた。
歩道を進む僕の行く手をふさぐような障害物を白杖が捕らえた。
「この先、水道工事をしてまして云々」と青年が声を掛けてきた。
「通れないってことかい?」、僕は聞き返した。
青年から「すいません、そうなんです」と返事が返ってくる。
僕は仕方なく歩道を降りて車道の端を白杖でたどり歩くことにした。
「ガードマンかよ、ちゃんと手引きしてくれないかなぁ」、僕はうわごとをぼそっと口にした。
「あっすいません。ガードマンです」と青年が答えた。
青年は僕の動きを見守りながら僕の背後にいたようだ。
そんな出会いがあってその翌朝から工事現場に差し掛かると、青年が決まって声を掛けてくれるようになった。
青年は、工事の現状を伝えてくれたり、信号を見てくれたりする。
そうかと思えば「俺、明日いないんで叔父さんが心配だな」、なんていってくる。
この町で数々のガードマンと遭遇したけど、こんな親切で優しい人には初めてあった。
いつも恐怖に震え渡る交差点に神様が舞い降りたようである。
これからも工事は続くだろうし、地形も徐々に変わり不安だけれど、通勤の朝、その青年と会うのが楽しみになった。
続く

今に見ていろ20年後 タンデムが走る世界

リオパラリンピックが開催されたことで障害スポーツへの関心度も高まってきている。
開催以降、うちの伴走サークルにもHPを見て伴走をしてみたいという人が増えた。
視覚に障害がある人からも走ってみたいという入会の動きもある。
そうしたことはマスメディアを通したリオパラリンピック効果ではないだろうか。
伴走をしてみたい、走ってみたいと思った人がいてそこに希望を叶える伴走サークルが各地にある、素晴らしいことではないだろうか。
しかし、タンデムの関心度は皆無に等しい。
うちの伴走サークルにも4台のタンデムがあるがパイロットがいない。
これは言い換えれば障害者がマラソンを走ってみたいけど伴走者がいないのと同じである。
それはまさしく20年前に(^-^)人(^-^)4人でこの地にランモード群馬を立ち上げた当時と同じだ。
伴走者がいなければ、視覚障害者が参加できる大会もないに等しかった当時そのままである。
ちょいと年をとってしまったけれど、僕に20年前と同じ野望がメラメラと沸いてきた。
今から20年後、視覚障害者を乗せたタンデムが当たり前のように走っている環境を残したい。
タンデムに乗ってみたい、パイロットをやってみたい人が必ず現れるはずである。そう、今の伴走のように。
タンデムの魅力をどう伝えていこうか。どう協力者を募るか思案中であるが必ずや!といった強い思いがある。
ランモード群馬のタンデム同好会、6名、そして僕の挑戦は、今始まったばかりだ。

全盲の私あるある。生活編

さくっと全盲の私あるある。・キッチンでお料理。コンロにお鍋が二つ乗っている。。。
一つは料理中のお鍋で、もう一つは残り物のお味噌汁が入ったままの使っていないお鍋。
そのお鍋に包丁で切ったばかりのお肉を間違えて入れてしまい意気消沈。ちゃんとふたをしておけばよかったわぁ。
。牛乳が入ったマグカップにお茶を注いでしまったようで飲んだら不思議な味になったった。
・今度は牛乳の入ったマグカップに間違えてオレンジジュースを注いでしまった。ヨーグルトみたいなドロッとした怪しい味の飲み物になったった。
・お茶碗にお茶を注いでいるとテーブルの上が水浸し。裏返しのお茶碗にお茶を注いだことに気づいて意気消沈。
・デスクでお仕事。書類を手探りで整理していたら湯飲み茶碗をひっくり返してしまい意気消沈。大事な書類が台無しになったった。
・朝の洗面台。洗顔クリームと歯磨き粉を間違えて顔に擦り込んでしまった。しかも念入りに擦り込んで意気消沈。
・出勤前の玄関先、白杖を置き忘れて右往左往。腰をかがめた瞬間に下駄箱の角に頭をぶつけて悶絶。
・やっと見付かった白杖は家族の誰かの杖。時間がないので借りることにした。
・長さの違う白杖は歩きにくい。障害物に気づくのが遅れて道路標識のポールにぶつかった。たんこぶができた。
・職場に着いたら同僚にずいぶん派手なシャツを着ているねーと指摘され気づいた。間違えて息子のど派手なシャツを着てしまった。
・一日の終わり。お風呂で入浴タイム。
湯船にバブを放り込んだら何やら怪しい香り。
バブと間違えて卵スープの素を放り込んでしまったようだ。
・その香ばしい匂いにうながされお風呂でビール飲みたくなったった。
こんなことがあっても私は明るく生きている。

胃カメラ

この日は主治医さんのところで胃カメラの検査をしてきた。
前の晩は20時過ぎは飲食禁止である。
朝八時半に病院に入った。
ちょいと緊張して待合室で呼ばれるのを待ってた。
年に一度は、ガンの早期発見を心がけこの胃カメラ検診をしている。
看護士さんに案内されケンサシツのベッドに横になるとまな板の鯉だ。

最初に喉に麻酔をするためにゼリーのようなものを口にふくまされる。そのドロッとした液体を喉の奥に10分間ためたまま我慢させられた。
その状態で看護士さんから注意事項の説明を聞かされた。
看護士さんは、年の頃ならば30代半ばといった感じの優しい語り口調の人だ。そんな看護士さんの雰囲気で緊張がほぐれていく。
主治医は僕と同年代くらいのできる感じの先生である。
マウスピースを噛まされるといよいよ検査開始だ。
体に力が入ってしまい身構える僕。
看護士さんが僕の背中をさすってくれた。
優しい柔らかな手だなとか、紙のいい香りがするなと思っていたらカメラがスルリと喉を通った。
胃の中の様子が内視鏡カメラを通してモニターに映し出されていたみたいだが僕には見えない。
内視鏡を操りながら主治医が、ふむふむとか、あれ?とか、なるほどとか言っている。
僕はそのたびに何かあったのかなとドキドキさせられた。
検査は20分くらいで終わった。
その結果を診察室に呼ばれて聞いた。
○○さんも腹黒いですねーなんて主治医さんに言われるんじゃないかとドキドキした。
結果はどうやらあまりよくない胃炎があるらしい。
また、新たに薬が処方されてしまった。
意気消沈して待合室へ戻ると聞き覚えのある声で「先生、どうかされましたか」と声を掛けられた。
声の主は勤務先の施設に入所しているお爺ちゃんだった。
私はどこが悪いとか、どんな薬を飲んでいるかしばし雑談。お互いに御身大切にしましょうなんて言葉を交わして病院を後にした。
僕はため息を一つして「年はとりたくないな」とつぶやいた。

桜の木の下で 淡い思い出

お花見のこの季節になると思い出すことがある。
当時おつき合いさせてもらっていた彼女とのことだ。
その彼女は全盲で、僕は休日にデートに誘った。
自分の中であそこへ行ってあれを見て、あれを食べてとか彼女に喜んでもらえるようにとプランをたてた。
お互いにおめかしをして電車に乗って町へ遊びに行った。
最初に水族館へ行ってみた。
弱視の僕は真っ暗な館内を水槽の明かりを頼りに歩いた。
目の見えない彼女に、水槽の中の魚の名前や大きさや色を伝えた。
彼女は、ふうんーと返事をしてニコニコしてる。
水槽の明かりで見る彼女の笑顔が可愛かった。
次に桜が綺麗な公園へ行ってみた。
僕は満開の桜の様子を彼女に伝える。
道の両脇から桜の木の枝がでていてピンク色のトンネルをくぐっているみたいだよとかあれこれ伝えた。
桜って匂いがしないのねと彼女がぽつりと言った。
僕が低い枝に咲いている桜に触れさせると彼女は優しい指使いでしばらく触ってた。
僕はそんな様子を診てはっとした。
いつもそうだった彼女とのデートは僕目線だ。
映画を見たり美術館やお寺を散策したけど、目の見えない彼女は楽しいのかな。
僕は彼女に申し訳ない気持ちにちょっとなった。
僕たちは満開の桜の木の下のベンチに腰掛けて、彼女が手作りしてきたサンドイッチを食べた。
僕は聞いてみた。君には花も魚も見えないけれど楽しいかい?こんなとこに連れてきてごめんねとも言ってみた。
彼女はけらけらと笑った。
何がおかしいのか聞くと彼女はこう言った。
普通の人と同じことをしていることが嬉しいこと。
それに貴方が一生懸命に見ている物が私の目だものと言った。
彼女は続けた。ほら貴方もそよ風が心地よいでしょ?私も一緒だよと笑った。
僕はこの人の目になろうと誓った。
ロン毛の中学教師がテレビドラマで活躍していた頃のB級な淡い思い出である。

ある日の練習会

僕たちが立ち上げた伴走サークルは大勢の人たちに愛され育てられ20年の年月が流れた。
月2回の練習会にも少人数ではあるがそこそこ仲間が集うようになった。
集合の陣地で和気あいあいと談笑する仲間達のそんな様子を感じているとサークルを立ち上げてよかったなぁと思わず笑みがほころぶ。
僕は決まってそんな円陣に耳を向ける。
一人でぽつんとしている目の不自由な人はいないかなとか、初めて参加してくれた人がぼっちになっていないかな。そんな心配りだ。
耳を向けているとほとんど会話に加わっていない人がいる。
それは目の不自由なあの人だったり、まだ馴染めない伴走者だったりする。
健常者だけが固まって談笑している。
僕はそんな光景に目の不自由な仲間が心細い思いをしていないかなと案ずる。
集団の中で目の不自由なものが一人でいることは心細いものだ。
この集まりにきてもあまり走れないとか、このところ練習不足なんだよねーとか健常者同士の会話が耳に飛び込んでくる。
違うだろ、伴走はそういうことじゃない。
長い距離を走りたいとか、速く走れる人を伴走したいとかじゃない。
練習不足?ならば、日常は走れない目の不自由なものは一年中練習不足だ。
そうした思いを口にすると周囲の反応は冷ややかだ。
障害者がああしてほしい。こうしてほしいと主張すれば「何様」と感じる健常者もいる。
伴走の誤解を旨く伝えられないかなとか、お互いにもっと歩み寄れないものかと物思いに耽る僕。
円陣からちょいと離れたベンチに一人座る僕。そういえば誰にも話かけられていない。
気がつくと練習会が終わり、それぞれが解散の身支度をしているところだった。
「誰か手を貸してくれないか」と円陣に向かっていい放した。
いかんいかん、危うく仲間に置いていかれるところだった(笑)
存在を忘れられるとは、自分らが立ちあげたサークルとはいえ情けない。

声のお話。一声惚れ(ひとこえぼれ)

乗り物や公共の施設などでよく耳にする案内アナウンス。
その声の響きやイントネーションの違いで耳にする僕の心持ちは違ってくる。
もう何年も前のことだけれど、旅先の飛行機の機内で、耳にしたCAさんの機内アナウンスの声が忘れられない。
「ご搭乗いただき有り難うございます」で始まるお決まりの機内アナウンスだけれど、そのCAさんの声は優しく、柔らかく乗客一人一人に語りかけているように感じた。
実際そうだと思うけれど、言葉のイントネーションに心があるというか、乗客への思いやりを感じた。
アナウンスの中で「旅先ではよい思い出ができましたでしょうか?」と、語りかけられたときには、僕は不覚にも涙してしまった。
旅先で出会った人たちのもてなしが温かく嬉しかったことだったり、100kmマラソンを初めて完走できた喜びが感極まったのだ。
そうしたアナウンスで泣いたのは後にも先にもそのときだけだ。
混雑する電車が遅延して車内に長い間閉じこめられているときもそうだけれど、車掌さんのアナウンス一つで乗客のイライラは違ってくる。
タクシーなんかもそうだ。運転手さんの声がダンディーだったり柔らかだったりすると安心する。
この人ならきちんと目的地につれていってくれるって。
この間、携帯ショップで接客してくれた女性の声と雰囲気が素敵でドキドキしてしまったりもした。
動画サイトで朗読する女性の声が綺麗で、眠れない夜などは小説の読み聞かせを密かに聞いていることはここだけの話である。
あれ?これって、一目惚れならぬ一声惚れかな(笑)

安産のお守りと白杖

サークルの集まりでたまに顔を合わせる人の中に、全盲の青年がいるんだけれど、その人が白杖に安産の御守りをつけてた。
周囲はそれを男のくせにとか、間違えて購入したんじゃね?とかいっちゃって、そのことをネタに突っ込んでた。
僕も最初はおかしいなと感じていたんだけれど、ある日聞いてみた。
そしたらその青年がいうには、全盲の奥様が妊娠されていること、初産であることを嬉しそうに教えてくれた。
そしてずうっとは、奥様の傍にいてあげられないから祈るような心持ちで安産の御守りを白杖につけているんだといってた。
その後、そんなことを忘れていたある日のこと、その青年からメールが届いた。
「パパになりました。元気な男の赤ちゃんです。母子ともに健康です」って。
僕はスマホを握りしめたままで、しばらく固まっていたように思う。
僕の女房が出産した日のこと、家族が増えた喜びの朝を思い出したりした。
そして、人生の先輩として彼らにも頑張ってほしいと思ったり、自分たちのことのように嬉しかった。
僕は、手のひらのスマホで、「おめでとう。頑張れ新前パパ」とだけメールを返した。

これは変だぞ、駅前交差点

我が町の駅前交差点には歩道橋があってその下を片側二車線の国道が通っている。
にも関わらず朝夕の忙しい時間帯にはその歩道橋を渡らずに国道を自転車族に混じり横断する人々がけっこういた。
町の交通指導員からは無理な横断をせずに歩道橋を使うようにと言われていた。
当然、登校班の小学生は歩道橋を渡っている。
僕も勿論その歩道橋を渡っていたんだけど、最近その交差点に音響信号機が接地された。
これはいったいどういうことだ。
音響信号機は、目の不自由な僕らにはありがたい配慮には違いないけれど何か変だぞ。
これはどや顔で歩道橋の下を横断してもいいことを意味しているよな。
我が町では駅周辺の整備計画が進んでいるとはいえ行政の考えていることはさっぱりわからん。
将来的に老朽化した歩道橋を取り壊す計画があるのかも知れないな。
交差点には点字ブロックは整備されていないし、そこを横断するには危険を伴う。
まぁ馴れればどうってことないのかもわからないが、僕は一人の時には歩道橋を利用している。
こんな理不尽な交差点で死にたくないもの。

ランモード群馬 結成当時のお話。

自慢話と思わずに聞いてほしい。語り継ぐことは大切だし当時のことはその時代を駆け抜けたものでなければわからないのだから。
僕が所属する伴走サークル、ランモード群馬は、創立20周年を迎えた。
そこにたどり着くまでには沢山の仲間達が歴史を作ってきた。
その仲間達の中にはそれぞれの都合で来られなくなったものもいれば、志半ばでこの世を去った物もいる。
そうした仲間達の熱き思いに敬意を持って結成当時のことと、近未来への僕の思いをブログにたくしたい。
まずは、ランモード群馬の創立20周年おめでとう。そして、ランモードに来てくれてありがとう。
僕が走り始めた1995年当時は、群馬だけでなく地方では視覚障害者がマラソンを走ることは考えられない時代であった。
当時、弱視だった僕が走ろうと思った切っ掛けは、盲目の母親を伴走し走る娘の親子ランナーの挑戦をテレビで知ったことだった。
世の中には凄い人がいるなと、僕はその親子にどうしても会ってみたくなった。
それにはその親子が出場するマラソン大会に出るしかないと思い自らも走り始めることになった。
しかし、弱視の僕が一人で走るには限界があった。伴走者がいたらいいな、走る仲間がいたらもっと走ることが楽しいだろうなと思ったものだ。
そうした環境を探して、JBMA・日本盲人マラソン協会が主催していた代々木公園の集まりに僕は幾度となく足を運ぶようになった。
そこでは、地方からきた見ず知らずの僕を温かく迎えてくれ、初めて「伴走」というものに出会った。
僕が走る環境を必要とし、そこで助けられ、感動したように、そんな出会いの場を群馬の地に築く決意を固めた。
走りたいとか、伴走してみたいという人たちの窓口を創ろうと思ったのです。
盲学校時代の仲間に声を掛けると三人の男が集まった。
一人は全盲、僕を含めた三人の弱視の4人での旗揚げであった。
弱視三人で全盲の高瀬さんを代わる代わる伴走して練習をした。
97年のことだ、誰かリーダーを決めることになった。4人の中で一番熱血な田子さんが初代会長だ。
ランモードという名前の由来は、盲人が走る道とランニングモードを掛けて、「ラン盲道」と僕が命名した。
しかし、伴走の存在すら皆無な地での活動は困難を極めた。
今はどの大会でも視覚障害者が走っているけれど、当時は全国の大会で視覚障害者の参加、伴走が認められていなかったのです。
パソコンに詳しい黒澤明さんが事務局を担当し、僕が広報を任された。
自分たちで視覚障害者マラソンと伴走の情報を集めて新聞社や色んな大会事務局に資料を送付して理解を求めた。直談判にも足を運んだ。
97年の県民マラソンを全盲の高瀬さんを僕が伴走し、田子さんと黒澤明さんが単独でハーフマラソンを完走したのが群馬では、初の試みでした。
その時のことが地元紙に取りあげられ、その記事を見てくれ、連絡をくれた野崎さんがランモード初の伴走者ですね。
また、吾妻ランナーズから伴走協力依頼があり活動が大きく前進した。
女性会員の野崎さんが入会したことで、女性がいるならと現会長でもある聖子さんも仲間に加わった。
当時の僕らは視覚障害者ランナーの広告塔であることを意識して走った。僕のそんな思いは今も変わらないでいる。
年間24本の大会に出場して「伴走」をアピールしたことは当時のランモードの誇りだ。
そうした僕らを見て神部さんや佳那子さんが入会してくれた。
メンバーが少しずつ増えると走友会らしくなって活動も厚みを増した。
練習会は午前午後の二部連、集まる度にカラオケで打上が定番だった。
まるで学生時代の部活動みたいに、童心にかえって走り回ったことを昨日のことのように記憶している。
僕が会長を引き継いでからは、自ら旧ホームページ「走りま専科」を立ち上げてランモードの活動を日夜アップしてきた。
また、県外の伴走仲間との交流と地域の走友会とのつながり、伴走教室などに趣をおいた。
そんな試みを健常者は障害者の影になり僕たちのやりたいことを後押ししてくれた。
そうした取り組みで得た人脈と伴走の充実、そして「絆」が今のランモードの母胎になっていると自負している。
狩野さんに大ちゃん、佐藤ご夫妻が仲間に加わった当時のランモードを表現すると、障害の壁を感じさせない潔癖な団結力ですね。
様々な理由で練習会に来られなくなった人達もいるが、みんなと出会うことができたのもそこにランモードがあったからではないでしょうか。
ランモードと歩んだ20年は僕の半世紀そのものであり活動で得た出会いや感動は、生涯の宝である。
最初にお話ししたように我々は、まだ見ぬ仲間、皆様とこうして出合うために群馬の地に伴走の芽を植えました。
これまでの活動に携わってきた人と人の出会いと協力で小さな芽が大きな木になりました。
そしてそのりんとした枝のひとつひとつには、「絆」という名の花が今、満開になった。
20周年を迎えるに当たりランモードの活動に携わってこられた皆様に心から敬服し、創立メンバーを代表し感謝を伝えるものであります。
僕らがこうして、出会えた日のことのように、10年後、20年後にもアットホームなランモードが存在している伴走環境を皆様で継続していってほしい。
障害者が家の玄関を一歩外へ出る勇気をくれたランモード、ありがとう。
外で体を動かす気持ちよさを実感できているのも健常者の皆様あってのこと、心より感謝しています。
口うるさく生意気なジジイでごめんなさい。これからも皆様の活躍とランモードの飛躍をずうっと願っています。
二代目ランモード代表 ちゃれんじぃ
プロフィール

ちゃれんじぃ

Author:ちゃれんじぃ
毎日が色んなことへの挑戦だ!白杖への誤解や理解、日々のささいな出来事や感じていることを視覚障害者の視点からつぶやいています。アラヒフ世代・津軽三味線初心者・ジョギング・野球観賞・70年代フォーク&ロック・古きよき昭和をこよなく愛する全盲の伯父さんです。。

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