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視覚障害者あるある もやもや編

・ポケモンGOが社会問題になっているけれど、実はちょっと羨ましい。ゲームメーカーの技術者さーん!目野不自由な私たちにも遊べるゲームを作ってくださーい。
・タブレットは確かに便利だけれど、使いかってはいくない。目野不自由な私たちにわかりやすく教えてくれる教室はないかしら?
・家電やスマホ、ATM、回転寿司の注文までがタッチパネル!あーもう何とかしてー。
・24時間テレビが放映された後は、駅や町で声を掛けてくれた人が増えたけれど、一時的かよ。
・健常者が作り上げる感動!実は24時間テレビは嫌い。もっと私たちの日常や身近に目を向けてくださーい。
・交差点や路地で遭遇するハイブリッド車!おぬしは忍者か?音もなく忍び寄る車にガクブル。
・市役所や銀行なんかで書類に記入するのはちょっと苦手。どうしても自筆じゃなけりゃだめなの?だったら弱視やロービジョンの人たちが記入しやすい用紙を作ってくださーい。
・全盲の人に、ここに記入して下さい。理屈はわかるけれど、言われた側の気持ちもわかってほしい。
・横断歩道で誰かが私の肩をポンポン。もしもし赤信号でしたよ。えっ!もっと速く教えてー。
・街頭のティッシュ配りの人がこちらに手を指しだしているのに気づかずにティッシュがもらえない。
ティッシュかなと手を差し出したら外人さんにハイー!ってタッチされた。
・食事時。落とした箸を拾おうとして腰を屈めた瞬間にテーブルの角におでこをぶつけて悶絶!
・リビングの半開きになったドアの立て部分に正面からぶつかって悶絶!
こんなことがあっても僕らは明るく生きている。
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青い瞳の義眼

この前、駅前を歩いていたら若い女性に声かけられたんよ。どうせ宗教かなんかだと思ったけど、暇だったから話聞いてやったらやっぱりそうだった。その人がいうには、信仰すれば僕の目が見えるようになる云々。僕はしばし話を聞いた後に、こう切り返した。
僕、あの、おじさんの目は両目とも義眼なの。
宗教女、モゴモゴ。
僕、それでも見えるようになるの?
宗教女、そっそれ無理。
て、どっかいっちゃった(苦笑)
失礼なやっちゃなと思ったけれど、しつこい奴よりかはましだわと思い帰宅した。そんで、その話を女房にしたら、僕が義眼を作った日のことで盛り上がった。
えと、色んな事情があって義眼にすることになったわけなんだけれど、どうせだから一度しかない人生、面白可笑しくやらなくちゃと、いっそのこと子供の頃に見ていたアニメ番組、キャンディキャンディのアンソニーみたく、青い瞳の義眼にしてもらおうと真剣に悩んだんよ(笑)
そしたら女房、豚の貯金箱みたいな顔になるぅぅぅぅって、お腹抱えて悶絶してた。結局なんやかんやあってやめたんだけれど、今でも時々、青い瞳の義眼にしとけばよかったと後悔することがあります(笑)

昔はよかったな・・・声掛け

度々、このブログにも出てきている僕が毎日、通勤の行き帰りに渡る音響信号機も点字ブロックもない交差点。「車がこないかな?車が止まったな」、そんな気配だけで見切り横断する僕。「青になったな」とは思うが、その確信がないままの横断だ。これまで何度も危ない目に遭ってはいるが、今回はそのことには触れずに、その交差点を渡る僕を観ている、または、見守っていてくれる周囲の目について書いてみたい。
そうした交差点だから数回に何度かは、僕は赤信号でも横断しているはずだ。また、朝夕の人通りが多い時間帯なので、田舎町とはいえ複数の人に目撃されているはずである。これまでに何度かは、「青になりましたよ」などと教えてくれた人もいたけれど、声を掛けられることはほとんどない。よく言えば見守っていてくれているのだろうけど。そうしたことも最近は、時代の流れなのかなと感じている。
それというのも昔は、「まだ赤だよ」とか、「青荷なったぞ」と教えてくれた人がけっこういたんだよな。中には遠くの方から大声で、「危ないぞ!」と、怒鳴りつけるかのごとく忠告してくれた爺さんもいた。
古くさい話だけれど、盲学校に通学していたガキの頃なんて、誰も見ていないから大丈夫だろうと、信号無視したり、道端でゴミのポイ捨てなんかすると必ず大人に怒られたものだ。その時代には、そんな大人を嫌だなと思ったものだけれど、その反面、「自分が悪いのだから」と反省することもできた。
最近は、声を掛けてくれる人も少なくなったけど、声を掛けられることを煩わしく思う障害者がごくいるというのだから驚きである。よくいえば自立心なんだろうけれど、昔人間の僕にはその心理がよくわからん。

声掛けの難しさをしみじみと痛感

駅や町で困っていそうな障害者に手助けの声を掛けたところ、断られたという健常者がけっこう多いことに驚いている。中には迷惑だと言わんばかりな態度をとられたという人もいて、もう声を掛けることはやめようと思ったという人もいた。←SNSからの聞き取り。まぁ、よくいえば見た目ほど困ってはいなかったということと、障害者とていつも手助けを必要としているわけでもないからねー。通常、基本的に見守り、危険だなと感じたときだけ声掛けでいいと思いますね。。職場やサークルなどで、障害者と接している健常者は、駅や町で障害者を見かけただけでは声は掛けずに、「見守る」ことだけで、危険だと感じたときにだけ声を掛けているそうですが、また、白杖の人や車椅子の人などと普段接触のない健常者の中には、白杖の人が歩いているのを見かけただけで、手助けの声を掛けていたという人もけっこういました。そうしたことを「煩わしい」と感じる障害者もおるようだけれど、声を掛けて下さる人にしてみたら、心配だし、危ないなと感じたから声を掛けてくれたわけで、まったくの善意である。しかし、障害者にしてみたら周囲に足元に気を集中させて真剣に歩いているときに、「なんじゃい!」とイラついてしまうんだと思う。そうしたことが、「せっかく声を掛けたのに」、そんな気持ちにさせてしまうのだろうね。
こうしたケースは、どうだろう?白杖の僕らが道に迷ってしまい、通りがかりの人、道行く人々に「すいません手を貸してもらえませんか」と、手助けの声を上げたところ、足を止めてくれる人は驚くくらい少ないです。これは、僕のケースのいくつかだけれど、人々が大勢行き交う朝夕の駅構内や交差点で迷ってしまい、手助けの声を上げたところ足を止めてくれた人は、2分くらいお願いし、やっと一人が足を止めてくれるのがいいところです。そんなとき僕は、「世間は冷たいな」と感じたこともあったけれど、最近は足を止めて下さった、その人の善意に勇気に全力で感謝するその気持ちだけです。
古くさい話だけれど、昭和の時代は、どこにでもお節介な人がいて、手助けしてくれたし、悪いときにはしかりつけてくれた大人買い他。また、そうしたお節介に、説教を素直に聞ける人が大勢いた。次回は、そんな話を書いてみたいと思う。

藤原湖マラソン走ってきた

21日、藤原湖マラソンを走ってきた。目の見えない僕がどうやってマラソンを走るかといえば、ガイドランナーと呼ばれる健常者(伴走者)の誘導により走ることができるのです。その場合、長さ1メートルの一本のロープの端を結びつけ輪にしたロープをガイドランナーと視覚障害者が互いの手で持ち二人三脚の要領で走るわけです。そうしたことからロープを持っている持っていないで健常者ランナーと走る条件は一緒です。ガイドランナーは、走りながら路面の状況や左右どちらに曲がるとか、景色などを伝えてくれます。
今回、僕がロープをお願いしたのは古くからの友人で、もう何度も伴走をしていただいている男性(67)です。マラソンコースは藤原ダムサイドの起伏に富んだ県道を折り返す15Kmです。この日のお天気は、夏のでかい太陽が高原の大地をジリジリと照りつける残暑日でした。
スタート前の会場広場で伴走者とウォーミングアップを兼ねて出店ブースを見て回ると、それだけで汗だくである。給水テントで冷えた麦茶を立て続けに飲み干し、スタートラインに並び号俸を待ちました。
緊張と不安でモジモジしていると、スタートの号俸が打ち鳴らされた。
田舎大会といえどもスタート直後はラッシュアワーの人込みが一斉に駆け出す感じだ。しばらくは未舗装の河原のゆるやかな上り坂が続く。転倒しないようにと、足元に神経を集中させる。膝には古傷の違和感がある。勾配がきつくなると早くも息が上がってしまう。最後の力を振り絞りたいところだが、まだ残り14・5kmあるからペースを落とす。
県道に出るとやっとアスファルト舗装に変わり少し体の力が抜けた。沿道から聞き慣れたお国訛り言葉、上州弁の声援が励みになる。伴走者が巧に混雑を抜け出しペース配分が落ち着く。しかしそれも勾配がきつくなるとすぐに息切れに変わってしまう。
5km通過タイムは、26分だった。いつもならばなんてことないペースが、苦しくてオーバーペースに感じられる。そのうち落ちつくだろうと苦しいのを我慢する。
折り返し地点まで来た。このままのペースでいけば、1時間33分でゴールできる。最後の力を振り絞りたいところだが、まだ7km余りある。
さっき元気なエールを交わした仲間の伴走ペアに次々に抜かれ続けた。抜かれざまに励まされるありさま。それまで、僕のロープを力強く引いていた伴走者も僕の健康を気遣い歩くような歩幅に会わせてくれた。
僕は僕で、せっかく伴走していただいているのだから、「もっと頑張ろう」と、今度こそ最後の力を振り絞る。かつては何度も飛ぶように駆け下りた河原の下り坂をふらふらと下り、何度となく仲間と競い合い駆け抜けたゴールに倒れ込んだ。こんな情けない結果だったが伴走者も仲間達も「よく頑張った」と、僕のことを讃えてくれた。仲間っていいなと思った。僕は、伴走者に「ありがとう」を言って固い握手を交わした。空似は過ぎゆく夏を惜しむようにでかい太陽が輝いていた。

私が駅ホームで心がけていること

「二度あることは三度ある」。昨日の記事で駅ホームから落ちた実体験を書いたけれど、僕は二度の転落経験があるが、何も不幸自慢とか悲劇のヒーローを気取っているわけじゃない。ろくでもない記事だけれど誰かの、そして何かの役に立てたらと、そんな思いで書いてみた。今日は、三度目がないように僕が心がけていることを書いてみたいと思う。まずは駅ホームの構造とか、そのとき誰かが声を掛けてくれていたらなど、現場状況ばかりに目を向けがちだけれど、思い返してみると僕自身にも悪いところがあった。一度目は少し飲酒していたし、二度目は、迷ってパニックになっているのに自力で何とかしようとして落ちてしまったわけだけれど、、飲酒していなかったら、周囲に手助けの声を上げられたら防げたようにも思う。タラレバである。また、これは未遂だけれど駅ホームに係わらず危機一髪!危なかった場面に遭遇したときは、急いでいたり、何か考え事をしていたり、馴れている場所だから気を抜いていた。過信は禁物!これからは、そうしたことに十分に気をつけたいところだ。
さて、駅ホームから落ちないための心掛けだけれど、僕は、こうしたところに気をつけるようにしている。一番安心なのは駅員さんによるガイドを利用するのがいいんだけれど、毎日毎回では気が引けてしまうというのは僕だけだろうか?そんな気兼ねからよほどのことがない限り自力で行動している。その際には、当然のことだけれど駅構内は勿論、駅ホームでは、点字ブロックの上以外は歩かないようにしている。そして、白杖の先は絶えず点字ブロックを捕らえていることを重要視し、加えて点字ブロックの線路側は歩かないことだ。点字ブロックの上に立っている人には、申し訳ないがお願いして。道をあけてもらいます。靴はなるべく点字ブロックのボツボツがわかりやすいものを選んで履くようにしている。
と、ここまでが点字ブロック歩行に関してだが、歩く早さは慌てず余裕のある歩行に心掛けている。そのため電車の時間にはかなり余裕を見て駅に行くことにしています。それから、液ホームでは、構内アナウンスや警告メロディーをよく聞くことではないだろうか?多くの鉄道会社では、電車が接近していることを知らせるアナウンスやメロディーが発せられるはずである。その渓谷があった後に、電車が入ってくるまでわずかな間があるが動かないことだと、僕はそう思う。
最後に、駅ホームでは周囲の人から手助けの声を掛けてもらうことは極端なことをいえば大歓迎である。あくまで僕の場合だけれどね(苦笑) そのため人が声を掛けやすいように身なりは清潔に心掛け、強引な突撃歩行などは論外!やらないし、人とぶつかってしまったときの謝罪の言葉づかいとか、声を掛けてもらったときの態度や言葉遣いにも気をつけたいところだ。
何もそこまで気を使わなくてもと思うかもしれないけど、僕自身も助かるし、そうした誠意のある受け答えをすることで、声を掛けてくださった方が、また違った場面で、障害者やお年寄りに声を掛けてくださることを妄想して僕はそうしています。せっかくの善意、勇気を横柄な態度で突っぱねるのは失礼だ!
僕がどのように中傷されまいがかまわないけれど、最初にのべたように、この記事が誰かのために何かの形で役に立てたらと、そんな思いで書いてみました。駅ホームの安全を願い。 ちゃれんじぃ
ここまで読んでくださりありがとうございました。

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私はこうして駅ホームから落ちました

また、視覚障害者が駅ホームから落ちて亡くなった。今度は、盲導犬を連れた男性が尊い命を落とした。ニュース報道によるとホームの端を歩く盲導犬を連れた男性を事故直前にけっこうな人が目撃していたそうではないか。見ていた人は、「盲導犬と一緒だから大丈夫だろう」と思ったのかも知らん。しかし、誰か、誰か一人、「電車が入ってきているよ!」とでも言うが早いか男性の腕でも腰でも引き寄せてくれるよな人が、その場に居てくれたらと悔やまれる。
実は、駅ホームから落ちた経験のある視覚障害者はけっして少なくない。僕の周りにも自分を含めて経験者はけっこういて、その知り合いの中には亡くなった人もいる。今回は、そんな話を全盲視点で書いてみたいと思う。
山手線の駅ホームから落ちて亡くなった人は、活発な若い男性でした。下車した場所がホームの端で、ホームの幅が極端に狭くなっていて、降車した反対側のホームから転落してしまった。盲導犬と一緒に落ちた人は、やはり自分が線路側を歩いていたそうです。幸いその方は軽傷ですみましたけれど。
つい最近では、僕のランニングサークルに所属している男性が朝の通勤のホームで落ちました。点字ブロックの上を歩いていてハッ!としたときには落ちてしまったそうです。直後に、「人がおちたぞ!」と、群衆から大声が上がり何人かにより引っ張り上げられ助かったそうです。その直後に電車が入線してきて怖かったと体を震わせて話してくれました。
最後に、僕は二度、駅ホームから落ちたことがあります。一度目は、まだほんの少し視力が残っていた頃で、少し過信があったのでしょうねー。飲み会の帰りで、ちょっと酔っていました。そのときの記事はこちらです。
http://sirotuebanana.blog.fc2.com/blog-entry-60.html?sp

二度目は、全盲になって間もない頃でした。けっこう大きなターミナル駅ホームでのことでした。ホームにはけっこうな乗降客が行き交っていて、構内アナウンスと発車ベルの音、電車の走行音、人々が交わす話し声などの音の洪水に僕は飲み込まれていました。点字ブロックの上を歩いていたはずなのに気がつくと点字ブロックから外れてしまっていました。
冷静さを欠いた僕は周囲の人に、手助けの声を上げることを忘れてました。点字ブロックを探しながら完全に方向感覚を失った僕はよくわからないうちにホームからおちていました。奇跡的に足から着地することができたのですぐに腕をホームに伸ばしました。ホームは思っていた以上に高くて、指先がホームの端に架かるのがやっとでした。
そのときは、居合わせた人々に救助され事なきを得ましたが、そのときのことがトラウマで、今でも駅ホームを白杖で歩くときはガチガチに緊張します。
では何故にホームから落ちてしまったかと思い返してみると、当たり前だけど点字ブロックは、ホームの端にある。そこを白杖で確認しながら歩くわけだからそれだけでも危険と隣り合わせである。点字ブロックの上を歩いているとけっこうその上に立っている人がいる。ときには、荷物が置いてあることもある。電車を待っている乗客は点字ブロックギリギリに立っているので、実は点字ブロックの外側、線路よりが歩きやすいわけだ。白杖は点字ブロックをなぞり人がいないスペース、点字ブロックの外側を歩いてしまった。乗客や荷物を避けようとして落ちた。人に押された。人とぶつかった。ホームの幅が狭くなっている階段付近でも事故が多発している。
僕はこれまでのべたこと以外に危機一髪!周囲の人に助けられたこともある。それは落ちそうな直前に腕を捕まれて制止させてもらったり、「私と一緒に乗りましょう」と、声を掛けてくださり腕を組んできた人もいた。電車が来るまで腕を放さずいてくれた。名前を聞いても語らずにその人は、「気をつけてね」と言って立ち去りました。駅のホームが欄干のない橋ならば、駅ホームで声を掛けてくださる人は、「命の恩人」と言っても過言ではないと僕は思う。
駅ホーム転落経験者はたまたま電車が来なかっただけ。死んでいてもおかしくない。もうそんな怖い思いはしたくないし、これ以上犠牲者が出てほしくない。「ご一緒しましょうか」、「お手伝いすることはありますか?」など、健常者の皆様、駅ホームで、不安そうにしている、危険だなと感じた白杖の人を見かけたらそんな声掛けをお願いします。
改めて駅ホームから落ちて亡くなられた方々の御冥福をお祈りいたします。

白杖の音→弱視→光覚→全盲←今ココ

SNSでみんな言いたいことを言う。それはそういうところなんだからいいんだけれど、僕のようなまったくの全盲の立場からの発言は、視覚障害者の中でも極端に少ないようだ。僕は先天性の弱視で半生を送ってきた。だから自転車にも乗ったし、青空の青色も星空の美しさも知っている。一番視力があった頃は、0.6あった。幼い頃に片目の視力を失ってからは、片目での生活となった。特別な不自由はなかったけれど弱視ゆえの苦悩はあった。同時にそのときの僕には、全盲の人の気持ちがよくわかってなかった。今四年前に失明してから少し見えているのと見えていないのでは白杖を使うときの感覚が違うということだ。光を感じられる光覚(こうかく)だけでも白杖で歩くときの情報になるし、光を感じるのと感じないのではまったく違う。なぜなら僕はそうした経緯を経て今に至るからだ。
全盲になってから道に迷ったことがある。タクシーで自分の目的とはちょっと違った場所で降車してしまったことがあった。夜の九時過ぎ、田舎ゆえに人に尋ねようにも通行人はいない。携帯で誰かに迎えにきてもらうにも場所がうまく伝えられない。どうしたかと言えば耳はダンボにして、鼻をピクピクさせて周囲の情報をなんでもいいから収集した。かすかの聞き慣れた音の方向に白杖を向ける。住宅街の路地は入り組んでいて、点字ブロックなどはない。
道端の側溝のコンクリートでできたふたとアスファルトの境を白杖で軽く叩き音を立てるとコンクリートとアスファルトでは白杖の半跫音は違う。そんな音と路面の形状を確かめながら進んだ。
空気の流れや空気のたまっている場所を巧みに感じながら進んでいると、白杖のコツコツの響きが聞き慣れた半跫音になってきた。そこからは高い建物やブロック塀などに反響した白杖の音で自分が今居る場所がわかり事なきを得た。
僕がいう、白杖の半跫音ということはこういうことなんだよ!終始白杖の響きを頼りにしてるわけじゃないよ。白杖を使う人のそれぞれの技能は違うし、住んでいるところが違えば環境も違う。みんな必死なんだよ。

ちょいと疲労困憊だけれど趣味に助けられてる

お盆休みもなく日曜日に一日休養しただけで、先週からずうっと働きづめ。僕が若い頃は、学校も役所も土曜日は半ドンだったから、週六日は普通に学校へ行き、会社へ行ってた。ところがどうだ。最近は、5連続勤務でへばってる。仕事柄休みは不定期でほとんどが平日。2日出勤して、一日休んで3日出勤、そんな感じ。だから当然世間の連休とは無縁だ。今回はシフトの関係で5連続勤務が二週続いてしまったわけなんだけれど、ちょいと疲れてる。頑張りが利かなくなって、年かな(笑)
そんな僕の疲れやストレスの解消は、津軽三味線教室に行ったり、日曜日に伴走者とランニングしたり、タンデム自転車を楽しむことなんだけれど、そうした趣味を持っていることが本当によかったと思ってる。
当然、健常者のサポートが必要なわけなんだけれど、玄関を出る機会は多くなるし、耳で生の美しい音色を聞き、外で体を動かし汗をかくことは実に気持ちがいい。そうしたことから健常者のサポートや趣味の仲間に感謝しているんだ。
家で閉じこもっている白杖使いの皆、何かどんなことでもいいから、何かひとつ家の玄関を出られるような、趣味を持とうよ。今は、ヘルパーによる支援も駅員による誘導も充実してきていますし、買い物でも、美味しい者を食べに行くとか、散歩でも何でもいいと思うよ。
かく言う僕は、後3日仕事して、やっとやっと2日間の連休です。そんな休みを利用してマラソン大会に遠征してきます。そんなことを楽しみに今日もお仕事頑張るどー

白い杖の人あるある 乗り物・外出編

●バスターミナルで行き先別に並ぶ列の最後尾がわかりにくいし、どこへ行くバスの列なのかわからなくて右往左往。●タクシー乗り場に並ぶ列の最後尾もわからない、わかりにくい。
●バスに乗れたのはいいけれど空席がわからず手すりにつかまり立っている。ひたすら立っている。
●タクシー乗り場。やっと乗れたのはいいけれど、運転手さんが無愛想でテンションが下がる。不安になる。
●料金メーターは見えないし、今いくらなのかドキドキ。
●降車のときは、「おいくらですか?」と運転手さんに聞く。
●降りたタクシーが去った後。「あれ?おかしいぞ」と気づいたときには時遅く目的地じゃない、いつも降りる場所じゃないことに気づいて意気消沈。
●私の白杖は、折りたためない長い杖。バスや電車で座れた時には、杖を脚の間に挟んで必死のパッチ。乗客に邪魔にならないように、倒さないようにしている。
●マラソン大会や登山に出かけた帰り道。階段を上る時、白杖にしがみつくように重い脚を一歩ずつ進める。
●視覚障害者が集まる宴会や集いがあると、「この杖はどなたのですか?」、「私の杖を知りませんか?」。そんな光景が宴の最後にあるある。
●杖の先っちょを触ってみたら石突きの部分、パームチップがコマみたくすり減っていた。この猛暑、アスファルトの熱で溶けたのかと思ったらもう三年も石突きを変えていない無精な私だった。白杖も溶ける街角、ないない。
●ネットで白杖の音で周囲に自分の存在を気づいてもらう白杖を使うときのテクニックが話題になっているそうだけれど、「すいません失礼します。ちょいと道をあけてもらえませんか。ありがとう」で、世の中渡ってきた白杖歴四十年になる小心者の私。
注・上記のあるあるはあくまで僕個人で感じたことで統計的なものではありません。すべての人がこうでないことを付け加えておきます。
今日も街での小さな親切に感謝です。そして、白杖をお使いになる皆さまの安全を心より願っています。

なんですと!白杖の音がうるさいってか

ネットで白杖の音がうるさいと怒鳴りつける男性のことが話題になって、白杖で音を立てるのは自分の存在を周囲にわかってもらうためみたいな風潮が広がっているらしい。白杖を使う人には色んな技術やテクニックを用いて歩行する人がいて、場面場面で様々なケースがある。普通に白杖を触覚のように左右に振り歩行すれば意識しなくても白杖はコツコツと音を奏でる。こんな世の中だからそんな音を耳にして、「やかましいなー」と感じる人も確かにいても不思議じゃないし、「目の見えない私が近くにいますよ。ぶつからないでね」、そうした些細な気遣いからいつもより少し地面を強くたたき、いつもより少し大きめに杖の音を立てる白杖の人がいても不思議じゃない。お互い知らないもの同士が駅ナカや町中で擦れ違うんだものごかいが生じても仕方がないやな。ただね、白杖を使う当事者から言わせてもらうと、白杖で音を立てるのは周囲に自分の存在をわかってもらうためという考えはやめていただきたいんだな。白杖で音を立てるのは場面場面に応じた白杖を使うときの「技術であってひとつのテクニック」であることを御理解いただきたい。
最後に、僕の場合だと白杖のコツコツという音が周囲の建物や壁に反射することで、自分が今いる場所の状況の情報を知る手だての大事な音のひとつです。白杖をこよなく愛し、白杖を使うひとりとして、「おらおら、目の見えない私が通るぞ!どけどけ」、そんな威圧的な音を立てる白杖使いでないことを切に願うものであります。

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プロフィール

ちゃれんじぃ

Author:ちゃれんじぃ
毎日が色んなことへの挑戦だ!白杖への誤解や理解、日々のささいな出来事や感じていることを視覚障害者の視点からつぶやいています。アラヒフ世代・津軽三味線初心者・ジョギング・野球観賞・70年代フォーク&ロック・古きよき昭和をこよなく愛する全盲の伯父さんです。。

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