町は今日も冷たく、温かい

盲導犬の大人しいところにつけこんで顔に落書きされたりホークで刺される事件があったそうだ。こういうことがある度に思うことがある。勿論やった奴が一番悪いわけだが、犯行を見ていた人が必ずいただろうにという疑問だ。
見て見ぬふり、これも同罪ではないかと思ってしまう。
しかし、注意をされたことに逆上した奴に刺し殺される世の中だ、関わりたくない気持ちもわからなくはない、世知辛い世の中だ。
僕ら目の不自由な人間も白杖を突いて歩いていると色んな場面に出くわすものだ。いつだったかこんな出来事があった。
飲み物を買おうとした僕は、自販機の前で、うっかり小銭をばらまいてしまい、地べたに手のひらを這わせて落とした小銭を拾い集めていたんです。
すると、近くにいた若者グループが、そんな僕を見て、コソコソ、クスクスとあきらかに僕を馬鹿にしてた。見ろよ目○らだぜとか会話も聞こえてきた。
僕は、その場から逃げ出したい気持ちを抑えて手探りで落とした小銭を探すことを続けた。
そんなところに、「若い人、あんな人たちばかりじゃないから・・・ごめんなさい」、そう涙声で言って、落とした小銭を拾い集めて僕に手渡してくれた若い女性がいた。

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片目のジャック 3

盲学校の高等部に編入した僕は周囲からちやほやされた。大半の生徒は小学入学時から寮生活をしているところなので、普通校から来た僕が珍しかったのだと思う。
10人程度のクラスにはちょいと物足りなさもあったが、すぐにそんな環境にも慣れて親しい友達もできた。
できた友達に、例のバンドの連中もいた。彼らとのいきさつは一日前の記事を読んでほしい。
目の悪いことへの偏見もイジメもない、少し見える弱視の生徒が全盲の生徒の手引きをする、そんな環境の中で僕の毒気はいつしか抜けていった。
目の見えない生徒の学びやというだけで、普通の学校とやっていることは何ら変わらない盲学校には、勿論、部活動もあって僕はバンドと陸上競技に打ち込んだ。
陸上部にやたら面倒見がいい弱視の女子がいて、まさか後に、そいつが僕の女房になるとは人生とは不思議である。

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片目のジャック 2

ガキの頃に草野球をしている最中に目を負傷して左目が義眼になった僕は、もう片方の目、0.2の視力で半生を過ごしてきた。
義眼になったばかりの頃は、それが原因で学校のクラスでよくからかわれた。僕に片目のジャックとあだ名がついた。僕はそのあだ名が嫌でたまらなかった。そのことがコンプレックスになって僕はしだいに不登校になっていった。
ガキが学校に行かなくなると、ろくでもないことをしだす。駄菓子屋とかドライブインのゲームコーナーに入り浸りになり、そこに群れる連中とつるむようになってからは、半愚れのような生活をしていた。
だけどそこでも所詮、片目が義眼で視力の悪い弱視、バイクに乗ることもできなければ、まともな喧嘩もできない情けないパシリのような存在だ。
僕らがたまり場にしてた喫茶店にギターケースを背負った盲学校の生徒達がよくお茶しに来た。聞けばバンドを組んでいるという。
彼らのライブに行ってみた。そこで僕が目にした彼らは、僕が憧れてきた誰よりも格好良くて、輝いていた。そして、半愚れの自分の愚かさに気づくのであった。
そんな彼らとの出会いがあったり親の薦めで、僕は盲学校に通うことになる。

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片目のジャック

子供の頃の話だ。詳しく書くことはできないが夕暮れ時の空き地で草野球を僕は友達としていた。空き地の端に土管が置いてある、ドラえもんに出てきそうな空き地だ。
その日は夕焼けがやけに綺麗だったことを覚えている。そんな夕日が沈みかけて、辺りがうすぐらくなっても僕らは野球を続けた。
当時は街灯などなく、ボールが見えにくくなれば白い石灰をつけたボールを無我夢中で追いかけたものだ。
僕は一塁の守備についていた。投手が打者を内野ゴロにしとめて、そのボールを捕球した野手から矢のような送球が僕に送球された。
僕はそのボールを視界から外してしまい、気がついたときには左目をすっぽ抜けのボールが直撃していた。
そしてその事故が原因で僕の左目は失明して義眼になってしまった。弱視のくせにそんな暗くなるまで遊んでいた僕が悪いのだから友達は攻められない。
そんなことがあって僕は、片目で半生を過ごしてきた。片目のジャックとあだ名をつけられてからかわれた少年時代。きもいと女にふられた青春時代、目に関してはよい思い出はない。
そうしたことにすねた半愚れの僕を立ち直らせてくれたのが盲学校で出来た友達たちだった。
次回はそんな友達のことを書いてみたい。

電車の女の子

僕たち、白杖使いが困っていることのひとつに電車に乗車した時に、空席がわからなくて座れないということがあるんです。
その朝も空席がわからなくて、ドア付近に立っていました。
そんな僕に若い女性が、「座らないんですか?席空いていますけど」と声を掛けてきたんです。
僕は断る理由もないので促されるように、その人の隣に座らせてもらった。
その人が話しかけてきた。「目のご不自由な方は空いている席はわかりにくいですよね」、確かそんな切り出しだったと思う。
僕は、そんな問いかけに、空いている席を探している時に乗客の足を踏んで怒られた話とか、座っていた乗客の膝の上に間違って腰を下ろしてしまった経験をユーモアを交えて話をした。
そんな話から会話が弾んでその女性は就活中の大学生であることがわかった。彼女はこれから面接だと言う。彼女は聞きもしないのに緊張していることや、将来の夢や不安を僕に話してくれた。
僕はそんな彼女の話を「うんうん」と聞いてあげることしかできなかった。
そうこうしていると僕の下車駅。僕はそんな彼女に席を教えてくれたお礼と、「大丈夫、落ち着いて」そう彼女に言って電車を降りた。

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パラスポーツの日

今日、8月25日は今年から、「パラスポーツの日」という記念日として、認定されました。
これは、6年後の東京パラリンピックの開会式が8月25日に行われることを記念して、NPO法人アダプテッドスポーツ・サポートセンターが申請し、8月15日付で日本記念日協会が認定したものです。

同センターによれば、8月25日だけでなく、8月25日から31日までの1週間を、「パラスポーツ週間」と位置付け、いろいろなイベントなどを行うことで、パラスポーツをもっと多くの人に知ってもらい、楽しんでもらえる期間にしたいようです。
パラリンピックはもちろん、障がい者スポーツのすそ野が広がる、ひとつのきっかけになる日になるといいですね。

白杖も折れる街角

その晩、僕は悔しくて眠ることができなかった。雨の朝だった。右手で白杖を突いて左手で傘を差して職場へ向かっている途中にこんなことがあった。雨の日の白杖使いは杖と傘で両手がふさがるのでけっこう大変なものだ。
路地を歩いている時だった。白杖を突くその手に何か軽い負荷を感じた瞬間、ボキッと音を立てて白杖が折れてしまった。目の前を抜けて雨で濡れた路面を走り去る自転車の気配が虚しく残された。
僕は折れた白杖の場所を確認しながら、「どなたか見ていた人はいませんか」、そう声を上げてみたが反応はない。何せ人工一万人足らずの田舎町の朝だ、ひとつ路地に入ってしまえば人の往来などほとんどない、そんな場所だ。
さぁ困った。白杖を上に向けて回すギャグでもやってみたところで何のリアクションもないだろうし、さぁ困った。折れた箸を想像してみてくれ、そんな箸で物は挟めない、折れた白杖もそれと同じで役をなさないのである。
仕方がないのでつぼめた傘を白杖代わりに歩いた。着ていた洋服はあっという間にびしょ濡れになった。そのまま職場に行っても着替えはないし、濡れた洋服では仕事にならないので、つぼめた傘を頼りに自宅に引き返して、その日は仕事を休んだ

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女房との出会い

僕はブログを始めてこのブログが四番目になるのだがほとんど触れずにいた話題がある。それは女房のことだ。今回は女房との出会いと馴れ初めを書いてみたいと思う。
出会いは盲学校の高等部時代だった。僕が一つ上の学年だったが当時はほとんど意識してなかった。同じ陸上部で色黒でやたら面倒見のよい弱視の女子がいるな、そんな程度だった。僕は按摩師の資格を取得するとすぐに関西で就職した。
 何年か後に地元に戻ってきた時のことだ。病院で働いてた親友にちょいと用事があって、そいつを訪ねると女房がそこで働いてた。僕は度々親友を訪ねた。そうこうしているうちにみんなで飲みに行くようになって、そんなことを続けているうちにお互い引かれるものがあって結婚した。カセットテープでカラオケを流して歌詞カードを見て歌を歌っていたそんな時代のことであった。
お互い目の悪いもの同士の結婚は両家からは反対されたが説得して一緒になった。当時の夫婦の目にはまだ光があって結婚式で二人してキャンドルに火をつけた。今は二人とも全盲になってしまったがキャンドルの揺れる炎の色と美しさはお互いの瞼に永遠である。

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視覚障害者あるある PART2

日常にありがちな視覚障害者あるある」をさくっと書いてみたいと思う。
・居間のテレビで野球観賞、アナウンサーと解説者が試合の流れと別段違う話をしている間に攻撃が終わってスリーアウトチェンジ・・・状況がわからず意気消沈。
・一緒に野球中継を観ていた息子が、うぉぉぉと絶叫!点が入ったのかと思ったら自分で飲んでいたジュースこぼしただけだった・・・紛らわしい。
・目の見えんもん同士の昼どきランチ、入った食堂で鉄火丼を注文、置かれたそれを面倒見がいい弱視のつれがあれこれみてくれたが食べたらソースが掛かっていて意気消沈・・・みんなショボン。
・いいよいいよ私の食べてと自分のと交換するつれ・・・弱視も大変である。
・ランチのお店選び、店頭のガラス越のサンプルに顔を近づけすぎてガラスに顔面強打・・・恥ずかしさと痛さで意気消沈。
・百貨店で洋服選び、値札の文字が小さすぎてサイズと値段が見えにくくて困惑・・・ルーペを使いたいがちょいと恥ずかしい。
・ラッシュ時の駅階段、間違えて人の流れに逆らうように階段を進んでしまい困惑・・・だけど仕方ないと、ドヤ顔。
・ホームの点字ブロックに沿って階段を探す、今日は人が少なく歩きやすいと思い歩いていたらホームの端に到達してしまい意気消沈・・・毎日が命がけである。
・みんなでカラオケ、画面の文字は見えないので誰かに横で読んでもらって歌う、歌い手と読み手の息のあった熱唱は実に素晴らしい!
・若い女性に間近で歌詞を読んでもらうちゃれんじぃさん、歌より女性の近さにドキドキして歌は上の空(笑)
・消灯すぎ、点字本を抱えてお布団の中で読書、お腹の上にちょこんと乗せてモソモソ。うごめく掛け布団を観て隣のお布団で寝ていた相方が・・・ちょ、アンタなにしてんの!と勘違い
・気がつくと点字本を抱えたまま寝入ってしまい目覚めると朝だった。
今日も僕らはこうして明るく生きている。

目の見えない人とランニング

僕は、目は見えなくても夢は見ることができる。その夢とはもう一度、フルマラソンを歩かずに完走してみたい、そんな夢だ。目の見えないひとがどうやって走るのよ?そんな疑問は当然だ。
どうやって走るかといえば、走行のガイド役になってくれる健常者と長さ50センチほどのロープの端と端を結び輪にしたものを互いの手で握り合い二人三脚の要領で走るのだ。「5メートル先を右に曲がるよ」、「上り段差があるよ」、今度は下りの段差だよ、ガイド役の伴走者が伝えてくれる。そんなアドバイスで目の見えんもんでも慣れてしまえさえすれば健常者と何ら変わりなく走ることができるというわけだ。
話を戻そう、僕は学生時代に陸上競技をやっていたこともあって20年くらい前からマラソンを走っている。最初は0.2の視力で単独でフルマラソンを何度となく完走した。視力が落ちてからも伴走者と完走したこともあったが眼病が悪化してまったく走れない時期があった。

走力の落ちるのは早いものだ。今は手術で目の痛みからも解放されてまた走れるようになったがフルマラソンを完走する力はない。練習を重ねてまたフルマラソンを走りきったあの達成感と感動を味わってみたい!それが僕の見ている夢と目標である

目は見えなくても夢は見える

その晩子供の頃に飼っていた犬の夢を見た。バッフィーという名前の柴犬だ。透き通るように綺麗な水が流れる川のほとりで遊ぶ僕とバッフィー。バッフィーは赤トンボを追いかけて石畳の上を走り回っては疲れると川の水を飲でた。僕はそんな様子を見ながら川の水面に平たい小石を投げて水切りをしている。小石は水面をアメンボのようにビュンビュンと跳ねて対岸に届いた。
そんな感じの夢であったが見上げると真っ青な空の青と対岸の木々の緑は昔目にしたそのものだった。茶毛に白い斑点があるバッフィーは黒い首輪をつけてる。小石を投げることに疲れた僕は石畳の上に寝ころび空にぽっかり浮かぶ雲を眺めてた。
そんなところにバッフィーが駆け寄ってきて僕の顔をペロペロとなめ回す。「くすぐったいよ、やめろ」、じゃれ合う僕とバッフィー・・・夢はそんなところで終わった。
目覚めると元の真っ暗闇の世界だけれどこんな色や映像のある夢が見れた時は凄く幸せな気持ちになる。
夢といえば僕には、もう一度フルマラソンを完走してみたいという夢があるんです。「目は見えなくても夢は見える」ー次回はそんな夢のことを書いてみたいと思う。

夜道での不思議な体験

外出先からの帰り、ちょいと遅くなってしまった。最寄りの駅で電車を降りたときにはすっかり日も暮れてしまっていた。駅舎を出ると辺りは静まりかえっている。地方の田舎の駅前は午後9時を過ぎればそんなもんだ。
駅舎を背に帰路を急ぐ。路地に僕の突く白杖の音がコツコツと響く。あちらこちらから虫の鳴き声が聞こえている。夕立があったのだろうか夜風が涼しく心地よい。白杖の先が水たまりを所々確認するので雨上がりだということがわかる。
そんなことを感じて歩いていると背後にさっきから何やらついてきている。ちょいと足を速めると背後のそれも僕の歩幅に合わせるようにタッタッタとついてくる。
足を止めるとそいつも動きを止める。また歩き出すとタッタッタとついてくる。これは何かやばいもんに取り付かれちまったかなと鳥肌が立つ。そして、しばらく動けずに立ちすくんでいると、とうとうそいつが僕の足下まで来た。
僕の足下でうごめくそいつを白杖の先で突いてやろうかと闇くもに杖先をコツコツとさせてみるが手応えはない。靴紐だったかズボンの裾をそいつに引っ張られる。そこでもしやと思い屈んで手をさしだしてみたが触れるものはなかった。

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父とナイター中継

父が他界して二度目のお盆、この日は身内で姉の家に集まって夕方からバーベキューをした。広い芝生の庭のある大きな家だ。義兄と甥っ子達が炭をおこし、肉や野菜を焼き、振る舞ってくれた。僕はそんな持て成しにすっかり甘えてテーブルで母達と父が生きていた頃の思い出話をしていた。
決まって出る話がある。仕事人間だった父の楽しみは大好きな酒をチビチビ飲みながらナイター中継に一喜一憂しながらの晩酌であった。そんな父に酒のつまみを作る母、観たいテレビ漫画を我慢する僕ら姉弟、懐かしい思い出だ。
バーベキューがお開きになってから僕は一人、仏壇の部屋に移動して、昔、父とそうしたようにエイのひれをあてに冷酒をチビチビ飲みながらラジオのナイター中継を聴いた。巨人が負けるとふてくされ、巨人が勝てばごきげんだった父の思い出にしたっていると・・・
ふすまがスルりと開いて母が、どっちが勝っているの?と聞く。
僕は仏壇に向かって、いい晩だな、親父、と言った。

指が目になった

僕は日記をつけたり手紙を書くことを趣味にしていたんです。タイプライターとかワープロでなくて手書きの文字でその日あったことを日記つけたり、文通相手の便せんに万年筆を走らせるんです。学生の間でマジソンバッグなるものが流行した頃から続けてきました。当時は、入学だ進学だというと、その祝いだといって万年筆を近親者にプレゼントしてもらったものです。その万年筆を手にすると、ちょいと大人になったような気分でした。
勉強の合間にパラパラッとめくった旺文社の中二時代のページで見つけた文通コーナー、そこに出ている名前とか住所とか、その人からのメッセージから妄想を膨らませて、この人と思った相手に手紙を書くんです。勿論、万年筆で。
しばらくすると相手から変じが届くわけなんですけど、封筒を開けるとインクの匂いに混じって潮の匂いがしたりとか、方言混じりの文章とか文字の癖から、まだ見ぬ相手の色々が伝わってくるわけですよ。
そんなことってメールでは絶対ないですよね!そして手書きの文字から伝わる温かさは永遠だと思ってた僕は、目が見えなくなって文字の読み書きができなくなってしまうわけですけど、点字を覚えたことでまた文字を持つことができました。

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点字を覚えて

最近は音声パソコンを使えば我々目の見えんもんでも調べ物やメールのやり取りが手軽にできるようになった。かく言う僕は、音声読み上げ入力機能を備えたガラケイからこの記事を書いている。便利な世の中になったものだ。
そんな便利から最近は文字を持たない視覚障害者が増えているそうだ。言葉は悪いが文字の読み書きが出来ないと言うことだ。いや、そうした便利から文字を持たなくてもすんでしまうのだ。
点字という文字がある。六つの点を組み合わせて作る文字だ。それを指先で触り情報を知るのが点字である。
幼い頃から点字を使っている先天性の全盲であれば何なくと読み書きしてしまう点字だが中途失明者が覚えるとなると厳しいものだが覚えてしまえばこんな便利なものはない。
僕もふとしたことが切っ掛けで点字教室に通い点字の読み書きができるようになった。その点字で読書をしたり趣味の文通をするのが最近の楽しみのひとつである。
読書は耳で聞くより指先で伝わる文章のほうがよほど頭に残る。そして何より友人との手紙のやり取りにはメールにない、その人の温かさが伝わってくる。
次回はそんな手紙のやり取り、文通の思い出話を書きたいと思う。

日航機墜落事件・・・この日を忘れない

1985年に520名の乗客乗務員が亡くなった日航機墜落事件から今日、12日で29年になる。僕はこの日この事を網膜剥離を発症した眼科病棟のベッドの枕元のラジオのニュースで耳にした。
明日、手術という晩だ。大変な事が起きたものだと驚くも自分の眼が失明するかしないかの不安と手術の緊張で事故の重大さを考えられなかった、不謹慎だがその時はそうであった。
ベッドの横で、結婚間もない女房が同じラジオを聴いていた。そのとき女房のお腹には長男がいて夫婦はこれからの生活を考えて不安のどん底にいた。
幸い手術は成功して眼帯が外れてしばらくして、事故の映像をテレビで眼にして事故の悲惨さと悲しみを感じた。
事故から半年が経った頃だった。中坊のときから文通をしていた相手から手紙が届いた。中はそいつの母親からの手紙で相手が飛行機に乗っていて亡くなったことが書いてあった。
「今まで娘と仲良くしてくれて有り難うございました。いつまでも娘のこと娘の文字を忘れないで」そう締めくくってあった。手紙だけで一度も会ったことなかった子だけど、こんな絆を引き裂き、何の罪もない520名の命を奪ったこの事件は許せない。
犠牲になった皆様のご冥福をお祈りして、合掌

パンチラ

息子と近所の商店へ買い物に出かけた時にこんなエピソードがあった。その日は台風の影響でとても風が強い午後であった。
白杖は折り畳んで持って息子の肘に捕まり歩いた。親子が歩くときにはいつもこうである。
 息子にも視野狭窄の視力障害があるのだがこうして歩くくらいは、「大丈夫だ」と息子は言う。
ここでちょいと息子の目の話をしよう。息子は網膜色素変性症と言う目の難病で視野が極端に狭く、0.6ほどの視力で五円玉の穴から覗き見るような感覚で物を見ているのだ。
 そんな息子であるが、今のところは真っ正面とか足下は健常者とほとんどかわらなく見えている。進行性の難病なので網膜の再製医療が進んで、父親の歳になるまで、いや生涯、息子の目に視力が残っていてくれることを願いたい。
話を戻そう、店から出た時のことだ、まだ外は風が強かった。息子が小声で言った、「うわ、ブルーのパンツだよ」、にやけているのがわかる。父はもしやと思い、「見たのか」と小声で聞き返すと、「JKのパンツ見ちゃったよ」と息子。
風で道行くJKのスカートがめくれた瞬時を見逃さない視力が、まだ息子にあることに、ちょいと羨ましくもほっとする父であった。

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迷子

夏休み、この時期になると思い出すことがある。子供達が小坊の頃に家族で行った海水浴場でのことだ。女房にもまだ若干の視力があって、おいちゃんにも私生活にはさほど不自由しないくらいの視力のあった頃の話だ。でっかい太陽と白い砂浜、真っ青な海、波打ち際でボール遊びをする娘と女房、息子は水中眼鏡をして海に潜ったりしてた。おいちゃんはと言えば、そんな様子を使い捨てカメラに収めてた。当時流行っていた、写るんデスとかいうカメラだ。「パパ、お腹空いたよ~」、真っ黒に日焼けした幼顔の娘が言った。そうかそうか、可愛い娘のおねだりに、女房にその場を任せて、一つ返事、一人で売店に買い出に行った。焼きそばとかソフトクリームを両手に抱えて元の場所に戻ろうとした時に事態は起きた。広い砂浜一杯の人混みで元居た場所が見つけられずに迷ってしまったのである。目印になるものったって辺りは同じようなパラソルがいくつも開いているし、同じ年格好の家族連ればかりで、みんな同じような水着着てるし、すっかり迷子になってしまった。波打ち際と人混みを
右往左往していると、怪しいと思ったのかライフセイバーの兄ちゃんに「どうされました?」って声を掛けられた。
 兄ちゃんに事情を話すとそれならばと一緒に待っている家族を探してくれることになった。しかし中々見つからない、他のセイバーも加わっての大捜索となった、大きな迷子である。そして、ソフトクリームはすっかり溶けてしまった。
セイバーの提案で迷子の呼び出しアナウンスをすることになった。とはいっても全盲に近い女房が子供達を連れて案内所まで来られるだろうか?そんな不安もあったけどお願いすることにした。○○さんのご家族の方、お父さんが案内所でお待ちです、どこどこ横の案内所までお越しくださいみたいな、放送だったように思う。待つこと十数分、来ましたよ、兄妹で母親の手を引いて迷子の父ちゃんを迎えに。こうして無事に家族と再会できたわけだが娘の手には何故かしっかりとソフトクリームが握られていて、口元がクリームでベチャベチャになってたことをこの目に覚えてる。
長男、小学四年、長女、保育園の年長さんの夏休みの出来事である。

白杖は使ってこそ意味があるんやで

白い杖の視覚障害者が犬のウンコを華麗に避けたとき俺は人を信じることをやめた・・・。これ、ちょいと前にTwitterでもの凄い勢いで拡散されていた、どこかの誰かが投稿したツイートである。これって、白杖は全盲だけでなくて少し見えにくい弱視やロービジョンの人たちも使用するものだということがさほど認知されていないということではないだろうか?白杖にはいくつかの役割があって、そのひとつに、白杖を携行して周囲に視覚に障害があることの注意喚起を示す役割があるんです。 前にも書いたけど、おいちゃんも少し視力があった頃は白杖を持つことが気恥ずかしくてさ、それにまだ白杖を使わなくても歩けるし大丈夫だろう、そんな過信みたいなものがあってさ、白杖を持ち歩けるまでには時間のかかった一人なんです。
そんな心の戸惑いがあってやっとのことで白杖を持ち歩くようになったらそりゃ水戸黄門の印籠ではないが、白杖を持っている心強さというか安心感みたいなものがありましたよ。それまでぶつかっていた人が向こうから避けてくれるし、それまで躓いていた段差にも躓かなくなって、それまでの目の負担が軽減されて、こんなことならもっと早くに白杖を持ち歩いていればよかったと思ったものです。
ところが疑惑というかそんな見方もあるんですな。白杖の先を地面につけずに歩いてるとか、電車で白杖を持った人に席を譲ったら座った途端に本を読み始めた、スーパーで買い物してた、相手の顔を見て話をした・・・そんな人が何故?白杖を持っているのよ、近所では見えないふりをしている偽障害者、そんな噂まで立てられました。
それでも白杖を持ち続けた理由のひとつには、昔、盲学校の恩師が忠告してくれた、わずかな視力で白杖を使わずに歩き回ってお年寄りや小さな子供とぶつかって相手に怪我でも追わせたら大変だということである。弱視やロービジョンの人たちの多くは、おいちゃんだけではなくてこうした心の戸惑いや迷いを経て白杖を携行しているのだと思う。
道交法でも全盲に限らず視覚障害の認定を受けて身体障害者手帳を持っている者は公道を歩く際には政令で定められた白杖を携行することが義務づけられているんです。そして、健常者の皆様の中にも近視、近眼、遠視、老眼、鳥目など様々な人がいるように視覚障害者も見え方感じ方は人それぞれで、視力1.0でもストローの穴くらいの視野しかない人、明るさや目の前の指くらいは感じられる人、視野狭窄や欠損など様々なのです。
 したがって、スマホの画面が見える人もいれば、白杖を小脇に抱えて小走りする人も当然いますし、それってごく普通のことなのです。白杖は、全盲だけでなくて、弱視やロービジョンの人たちもつかうものだということをご理解いただけると幸いなのだが・・・。

視覚障害者あるある

おいちゃんたち目の見えんもんにありがちな「視覚障害者あるある」をさくっといくつか書いてみることにする。
・職場の玄関とか駅ですれ違った人から、お早うございます・・・そう声を掛けられたけど、たまにえっ今の人だれよ?ってなって、取りあえず挨拶は返してみたけど、誰だったのかわからずにモヤモヤ。
・職場や学校の廊下で人の気配を感じてこちらから朝の挨拶するも同じ人に複数回挨拶してしまって思わず苦笑い。
・駅のロータリー、白杖で点字ブロックを辿って進むもいつまで経っても変わらない状況に可笑しいぞとおもっていたら、噴水の周りを囲うように設置されていた点字ブロックをずうっと辿っていたことに気づいて意気消沈。
・公衆電話の順番待ち、壁に向かって通話している人の背後に並んでいると、目の前のその人が通話しながら歩き出して赤面。そんなことが切っ掛けで携帯電話を持つことになったことは内緒。
・ガイドヘルパーさんに百貨店のトイレに案内してもらうが、個室の外で「私ここにいますから終わったら声を掛けてください」とヘルパーさん・・・。気恥ずかしくて出る物も出なかった。
・ならばと一人で入ったトイレの個室でのこと、水を流すレバーの場所がわからなくてウ○コを放置したまま退散したことは内緒。
・部屋で小銭をばらまいて手探りで拾い集めていたらなくしたはずの手袋の片方を見つけて思わずにんまり、時は真夏である。
・床に落とした物を拾おうとして腰を屈めたときに机の角におでこをぶつけて悶絶!
・先頭を歩く健常者に列車のようにつらなり歩く視覚障害者三人。いつしか横に広がってしまい最後尾の奴が電信柱にぶつかって悶絶!
・息子と晩酌、親子談義に花を咲かすが返事がないので可笑しいぞと思ったら、そこに居たはずの息子が席を外していて居なくて、無人の椅子に人生を語る父であった・・・次回へ続く。

眼鏡を掛けても駄目なものは駄目

やんちゃだった高坊の頃にそんな事件があった。にも関わらず白杖を持ち歩くことには抵抗があって盲学校を卒業して社会人になっても白杖を携行することはなかった。片目0.2の視力、慣れてしまえばどうってことない、どうにかなるものだ。関西の某県に就職して働いた。。何故に関西だったかは追々話をするが甲子園に野球を観に行くのにはちょいと遠かったが厳しかった親元を離れたこともあって、自分が弱視であることも忘れてとにかくよく働き、よく遊んだ。
自転車にも乗ったし、料理もした、女もできた。しかししょせんは視力の弱い弱視者には変わりはないわけで、高坊の頃のようなトラブルを度々起こしてはいた。人間違えは当たり前、暗い場所では足探り、刺身に添えられたワサビの固まりを思い切り食べて悶絶したこともあった。
ここで皆様の中には、目が悪いのなら眼鏡を掛けるなりコンタクトで強制したらどうよって疑問に感じる人もいると思うけど、そうした視力の強制が効かないのが弱視である。そして、そうした視力強制が効くならばこの世から弱視者やロービジョンの人たちはいなくなるだろう・・・当事者達の永遠の夢である。
ちなみに、おいちゃんの目は後に失明をすることになるが、生まれつきの弱視で、「牛眼(ぎゅうがん)」という眼病で元々視神経が萎縮しているために物を見る力が限られているのでいくら強い度の眼鏡を掛けたとしても視力は上がらないのであった。また、弱視者やロービジョンの人たちの中には視力はあるが視野狭窄や視野欠損の難病の人もいて、狭まった視野を眼鏡で広げることはどんなに技術が進んでも不可能なことなのだ。
おいちゃんの女房と息子は網膜色素変性症という目の難病で視野がほとんどない、息子などは、0.8の視力はあるが五円玉の穴から覗くような視野で物を見ているのだ。いつかそんな愛する視覚障害者家族の話もしよう。さて、次回は明るく「視覚障害者あるある」でも書いてみましょうか。

ボッコボッコ

バスを待っていた。当時通っていた盲学校からの帰りだ。何も考えずにぼ~っと目の前を通り過ぎる車の流れを目で追ってた。そんなとき突然、視角にいかつい野郎の顔が迫ってきた。「どこを見てるんだよ、ごりゃ」、そいつはオイラの鼻先まで顔を近づけてドスの効いた低い声でそういった。ナイフのような鋭い目をしたそいつは、学ランを着たオイラと同じ高坊だ。突然のことで何も言い返せないオイラ、ていうよりそいつと目が合っていたこともそんなツッパり野郎が近くに居たことなどまったくわからなかった。いや、目など合っていなくて単なる言いがかりをつけてきたのかも知れないけど後には引けない。ごめんなさい、目が悪くて気がつきませんでしたなんて、言えなかったし、そんな年頃である。。
いわゆるガンの飛ばし合いになった。かなり長い間にらみ合っていた記憶があるが気がついたときには病院のベッドに前進こぶだらけで寝かされていた。母親と姉が泣いていた。父親と担任に何があったのか聞かれたけど話せなかった。お巡りさんにも聞かれたけど話さなかった。
後日この事は、何故か某高校の生徒と教員がお巡りさんとうちの盲学校に誤りにきた。めんどくせえことになったなと思ったけど、わけもわからずオイラも頭を下げた。成り行きは目撃者の証言で弱っちい男子高校生が三人の不良に一方的に殴られていた様子と校章から高校を特定した通報があったんだとか・・・。相手も一人だと思っていたのに三人だったとは汚い連中だ!そう悪ぶるオイラに、担任が「お前さんが白杖を持ってさえいれば、あの子達もつまらない喧嘩を売らなくてすんだんだ、お前さんが一番悪い!」とこっぴどく怒られて、学校からもそれ相当の処分を受けたのであった。
そんなことがあったのに、それでも白杖を使うこと持つことが恥ずかしかったオイラ、17の夏。

反発

白杖を持つことに抵抗があって、こんなオイラでも白杖を使わないことがあった。思春期真っ盛りな盲学校の高等部時代からのことである。百恵、淳子、昌子の中三トリオがテレビを騒がせていた頃の話だ。その頃はまだ片目に0.2の視力があって白杖がなくても歩くことにさほど不自由はなく晴眼者とそんな変わらない日常を送っていた。学友には生まれつき目の見えない全盲や弱視の子もいれば何らかの都合で普通の学校から転入して来る子もいた。盲学校というところはそんなところだ。大半の生徒は寮生活をしていたがオイラは自宅通学をしていた。
そして登下校には当然、学校から白杖を携行するように言われていた。でも思春期真っ盛りなオイラは周囲からの眼が気になって白杖を使わなかった。そんなことより長ランにボンタン、ポマードべっちょりリーゼントをクールに決めて粋がっていた。そんなオイラが白杖を持ったら木刀にしか見えねえべ。まぁそれはそれとして、視力のちょいと悪いことにも白杖を使わなければいけないことに、さほど危機感を感じていなかった。格好つけたいし、女の子からも注目されたい、そんな年頃である。
恥ずかしい、照れくさい、めんどくさい、そんな理由で白杖を使わないオイラに担任が弱視用の白杖を携行することを進めてきた。スチール製の子供の背丈ほどの細く短い白杖だ。折り畳んで持ち歩けという。「こんな白杖なんの役に立つんだよ」と反発するオイラに担任は、「周囲の人にお前さんが少し目が悪いことをわかってもらうように持ち歩け」と言った。
「そんなの恥ずかしいよ!」、担任の忠告は右の耳から左の耳へ通り抜けた。後にその白杖すら持たずに、町中を肩で風を切って歩いていたことがとんでもない事件を引き起こした。そして、その担任とも長いつきあいになるのであった。次回は、とんでもない事件?の話をしよう。
プロフィール

ちゃれんじぃ

Author:ちゃれんじぃ
毎日が色んなことへの挑戦だ!白杖への誤解や理解、日々のささいな出来事や感じていることを視覚障害者の視点からつぶやいています。アラヒフ世代・津軽三味線初心者・ジョギング・野球観賞・70年代フォーク&ロック・古きよき昭和をこよなく愛する全盲の伯父さんです。。

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