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久し振りの視覚障害者あるある

・ポットの紅茶をTカップに注いだらテーブルが水浸し。可笑しいなと思ったら底が上になったままのカップに注いでいた。カップが付せたままだった。
・JK達の雑談と大きな笑い声で賑やかすぎる列車の車内。降車のアナウンスがよーく聞こえなくて降りるはずの駅を通り過ぎてしまった。
・昔の車掌さん、たまに声が小さかったり、ぼそぼそ話したり、早口の人が居て聞き取るのは真剣勝負だった。
・レストランで食事。オーダーを済ませた席に私が1人。健常者の連れがトイレへいっているときに食事が運ばれてきてバイト君があたふた、私もしどろもどろ。
・健常者の連れが私の前に置かれた食事の位置を教えてくれる。1時のお皿にサラダ、5時にお味噌汁、7時の器に白飯、真ん中にお肉が乗ったお皿。そんな気遣いに私、食べる気満々。
・割り箸を差し出す連れ。私、あっそれくらいはできるよ、そう言って割り箸くらいは自分で割ることにしている。
・リビングのテレビにリモコンを向けていたら無反応。可笑しいなと思ってテレビの置いてある場所を確認するとそこにテレビがなかった。家族が修理に出したそうだ。
・色んな人が集まるサークルなんかの陣地。私だけポツンと放置され誰も声を掛けてくれない。こんな集まり二度と来る物かと我慢しながら、知り合いの声をやっと探して声を掛ける私。
・木枯らしの街角、舞い上がった埃が目に入ったとかで連れたちが右往左往している。そんな光景にドヤ顔の義眼、ギガンジャーの私。
・弱視の連れと2人タクシー拾い。タクシーの色は黒、それを目安に手を上げる連れ。やっと止まってくれたタクシーのドアが開いて中の人がこう言った。
『アンタらどこまでいくんじゃ』、ずいぶん柄の悪い運転手さんだなー、感じわると思っていたらタクシーでなくて、黒塗りのベンツを止めてしまったようだ。
・取り込んだ洗濯物と洗濯に出す物が交ざってしまった。これかな?とクンクンしながら仕分けしているとパンツを鼻にした私、娘に変態!と、どやされた。
今日も我が家は笑いに満ちている。
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僕がフルマラソンを走らなかった理由

ランニングを始めて約30年。このブログや普段の雑談であまり触れることのなかった僕のランニング歴について書いてみる。
何故に僕がこれまで走る自分に触れなかったかというといかにも苦労したとか、これだけ走れた自慢みたいで嫌だからである。
それに大して群馬の伴走活動については、群馬で伴走といえば、ランモード群馬、頑張っている仲間達がより光り輝くように、より多くの人に向けて発信してきた。
本題に入る前に一言言っておくと、現在、僕はランモードを休会中であるし、サークルの運営には関わってはいない。
後継者や新生ランモードがこれまで以上に光り輝くことを見守る立場である。
政治や趣味の世界でもいつまでも創立者や代表経験者が幅をきかせているというのはイカガナもんだろうというのが僕の考えである。ただ自分が立ち上げた群馬での伴走の発足の原点でもあるランモードと後輩達を愛する気持ちが僕の誇りである。
さて、僕が走り始めた大きな切っ掛けのひとつにアトランタパラリンピックの金メダリストの柳川さんがいました。
単純明快に柳川さんの走りに感銘を受けたし、目が見えなくてもここまでやれるのか!ならば自分でもと思ったからである。
シューズさえあればすぐに走り出せるのがランニング、軽い気持ちで走りましたよ。
学生時代に陸上をやっていたとはいえ最初は、1kも走れなかった。
当時、弱視でひとりで練習できましたから、そこからがむしゃらに走って走りましたよ。
月刊走行距離は、常に300から500km、家庭も顧みずランニング中心の日々でした。
97年サロマ湖100kmウルトラマラソンを切っ掛けに2003年宮古島100kmウルトラマラソンを走りました。
フルマラソンは、第五回福知山マラソンが初フルマラソンで、そこから先日の那覇マラソンで24回目でした。
自己ベストは、3時間38分までいきましたし、その反面リタイアもありますが(笑)
我が家の納戸の奥に段ボールがひとつあるんですがその中に完走メダルや記録証が詰まっているが全盲になった僕にはただの紙切れにすぎない。見えませんから。
話は戻るがそれだけ走っていた僕が何故に一線を退いたかというと心ないバッシングが切っ掛けでした。
ご存じのようにうちの夫婦はともに目が不自由で、女房もランニングをしています。
そこで旦那さんだけが走ってばかりでずるい!あいつは奥さんに仕事をさせて自分だけいい思いをしている。
まぁ、そんな単純なことだったのだが僕はそれを冷静に良い方に受け止めることにしたのです。
それからは、趣味の範囲、健康を優先にしたランニングになりました。
ところが上手くいかない物で僕はメニエルを発症してしまいました。あまりそうしたことを理由にしたくはないが運動をすると船酔いに似た症状が出てしまい500mも走れなくなったのです。
大会に出る度に仲間や家族にどれだけ迷惑や心配を掛けたかわかりません。
僕の影響でランニングを始めた後輩達にも次から次に追いこされ、ちゃれんじぃさんも大したことないねーと笑われる始末でした。
悪いことは続く物で僕は、ご存じのように全盲になりました。
生まれつきの全盲のお友だちには恥ずかしいが、弱視だった僕が視力のない世界を克服するのは並大抵ではなかったです。
走ることは二の次、全盲の女房との生活、自分の自立が先決でしたから。
走る気持ちになってからは恐怖心を乗り越えることでした。
次にこれまでの自分とは違う自分になれることに今も苦悩しています。
さて、永くなったので話をまとめます。
ご存じのようにフルマラソンを完走することは並大抵ではない。
元々持病がある僕が全盲になって、練習もしないでいきなりフルマラソンを走ったらどうなるかはわかりますよね。
根性論や精神論では克服できない壁と闘いました。
趣味であるはずのランニングで、体を虐め、家族に心配を掛けていいのかという問題です。
僕自身も走る度に体調を崩してばかり、いい加減自分が嫌になりましたし、もうこれ以上は家族に心配を掛けられないということがフルマラソンを走らなかった理由である。
そうしたことを乗り越えて、二年ぶりに完走したフルマラソン、一年越しのリベンジを果たした第35回NAHAマラソンであったことを付け加えこの話は終わりにします。
何かをあきらめかけている人の勇気になったらうれしいです。

最後までドキドキの沖縄

制限時間残り二分で完走した第35回NAHAマラソン。ゴール後、ホテルに戻っても弱った体は回復することなく結局沖縄の伴走仲間と予定していた交流会へは顔を出せず出会った。
前出の完走記は、みんなが出かけたホテルの部屋で時々襲う吐き気に翻弄されながら書きました。
明けて沖縄最終日、僕が初めて沖縄へきたときに道に迷った僕に声を掛けてくれたOさんと再会することができました。
羽田から一緒していたオッサン達とは別行動でOさんに昼の飛行機の時間までの間、プチ観光へ連れていって貰った。
まずは、沖縄のモノレール、ユイレールに乗って焼失した首里城を訪ねました。
当然、火災があった現場には近づくことはできなかったが石の砦に向かい復興の祈りを捧げてきました。
その後はまたユイレールに乗って、国際通りで買い物をしました。
孫にシーサーのTシャツを買ったり、女房と娘へのお土産を見て回った。
ちょっと時間があったので、沖縄そばを食べてから空港へ。
時間に余裕を診て搭乗手続きをしたのだが不備があったようで時間がかかるかかる(怒)
残り時間5分!買い足ししたかったお土産を売店で購入した。
そして搭乗口の前で、Oさんとお別れをしました。
僕のためにわざわざ年休を取って観光や買い物につき合ってくれたOさん、本当に素敵なかたです。
こうして2泊3日の旅は終わりました。
この旅に登場した人物はすべて伴走を通してできた仲間である。ランニングをしていて本当によかった。
ありがとう沖縄と日記に書いておこう。

激闘のNAHAマラソン

雲1つない真っ青な空の下、20000人を超えるジョガーと幾重にも連なった応援の人垣がスタートの整列を埋めている。
伴走のSさんとTさんとスタートの1時間近く前からDブロックに紛れ込む。
背後に背負ったでっかい太陽が後頭部や肩や背中をじりじり照り付ける。
すたーとの号俸までまだまだ時間がある。早くも焼かれそうだ。
最初はSさんの伴走で走り出す。ラッシュアワーの人の流れがそのまま欠けだした感じ。
Sさんは半月板の故障を推して僕の完走請負にきてくれている。
途切れのない沿道の声援、エイサーやバンドの演奏。
Sさんとはキロ6分半から7分で15kまで快適な走り。
サブ伴走のTさんに伴走を交代。がしかし、Tさんの調子がよくないみたいだ。
そんなTさんと走っていると去年伴走してもらったYさんとばったり遭遇。
こんどはYさんに伴走を交代。
僕のフルマラソン完走に三人も伴走者がついてくれたことに感謝だ。
走りながら僕は、皆によくしてもらっているんだなーとしみじみと感謝した。
24k地点のひめゆりの塔でちょいとコースアウトして、聖霊達に手を合わせた。
コースへ戻ると早くも歩き出している人が目立ち出す。立ち止まったりペースを落としたりリズムが取りにくい。
加えて南国のでっかい太陽が本領発揮。体感は30℃である。
27k辺りから僕の耳がくぐもってきた。頭の中で自分の息がゴーゴー鳴っている。
胃の腑もムカムカし出して、ふくらはぎがピクピクしだした。
Yさんに伴走をしてもらい、Sさんに水やスポンジを手渡して貰い進む。
だが走れば走るほど脱水症状は悪化する
32kからは嘔吐しては歩いてまた嘔吐の繰りかえし、
走ってみると今度は、ふくらはぎが痙れて歩くの繰りかえしだ。
残り5kになった。
残り時間が1時間あるが油断はできない。
それもそのはず僕には走る力が残っていない。
Yさんとsさんをゴールまで連れていくんだ。
コソレンの伴走者に完走の報告を届けなければ、それだけを心に誓い距離を進めた。
残り2kになった。あんなにあった貯金がほとんど残っていない。走らないとアウトだ。
よし走るか!最後の力を振り絞り大きく足を踏み出そうとすると両方のふくらはぎが痙攣。
僕は、立っていられず地べたに寝ころんでしまった。
立ち上がろうにも違うところの筋がつれて立ち上がることが出来ない。
これでまた終わってしまうのか。頑張れ自分。
SさんもYさんも危機迫る状況でも引っ張りおこしたり、早くしなさいなどとは言わない。
ちゃれんじぃさんは凄いよ。よく頑張ってるとか。
まだ間に合うよ。公園がすぐそこに見えているよと励ましてくれた。
僕は、そんな2人をゴールへ連れていかないと!無意識に立ち上がっていた。
そして走り出した。両足の太腿やふくらはぎや脛や足底の筋がつれているままロボットみたいな足取りで走った。
泊まったらアウト。
沿道では沢山の群衆があとすこしだよとか、おかえりなどとジョガーを声援している。
僕はといえば歩きたい、歩きたい、、駄目だ!コソレンはなんのためのものだったんだ。
僕は走りながら嘔吐してしまう。
僕の誇り!ランモードのビブスが吐瀉物で汚れた。
ロープを引くSさん、歩いているジョガーや蛇行しているジョガーから僕を護ってくれるSさん。
この2人とゴールして琉球ガラスでできている完走メダルを三個GETするんだ。
Sさんがいい走りだよ、ちゃれんじぃさん、もう再興だよ、公園に帰ってきたぞー、自分の膝だって痛いはずなのにSさん。
しかし返事を返す力すら残ってない僕。ごめんね!Sさんと心の中で叫ぶ。
僕の脚は止まらない。違う生き物みたく勝手に動いている。
Yさんはこの状況でもロープを引っぱるようなことはしない。
前の人、道開けてください。ロープランナー通ります!必至で僕自身が自分の力で走りぬく行く手を作ってくれる。
返事を返せない僕の体が代わりに返事を返す。足を止めないよ、無言の返事をする。
踏みつける地べたの寒色が軟らかくなった気がした。
その瞬間!伴走の2人がおめでとうといった。何度も何度も。
トラックの脇でもおめでとうの大声援!陣地のみんなからの声援である。
Sさんが僕のぶんまで、帰ってきたよーといってくれた。Sさんが僕の手を仲間に向けて高々と上げた。
今度は、Yさんがロープで繋がった手を高々と上げた。僕が2人の真ん中になってゴールを駈け抜けた。
制限時間残り二分の激闘であった。

沖縄に着いたどー

飛行機を降りるとそこは、気温24℃の南国、沖縄である。
空港からタクシーで大会受付会場へ直行。
その後、ホテルに16時半、チェックイン。
部屋は羽田で合流のオッサン達4人と一緒のファミリールームだ。
荷物の整理と着替えをしていざ、みんな連なって夜の町へ出陣。
ホテル近くの居酒屋のテーブルを囲む。
大会前はノンアルコールときめていたんだけど100円ビールに欲がくらんでしまい、つい1杯。
モズクの天ぷら、ゴーヤチャンプル、鮪の刺身、豆腐、グルクンの唐揚げなどあれこれテーブルに並ぶ。
そんなあてをつつきながら明日の作戦会議。
明日は、気温25℃の酷暑とか。
どうやら暑さとの戦いになりそうだ。
晩飯の締めは店を変えて、沖縄名物のチャンポンを初めて食べてみた。
チャンポンというと長崎のあれだが沖縄では、
ひき肉とタマネギを卵でご飯を炒めたチャーハンみたいなものだ。
これがけっこうイケていて旨かった。
そんな夜をTシャツ1枚で過ごした。
全盲の僕が1人ではできない街歩き。
健常者の人の旅と何一つ変わらないこんなマラソン前夜。
走ることだけが伴走ではないんだよね。
いい仲間に恵まれたとベッドの中でつくづく伴走の絆に感謝している。
さぁ、明日は、頑張ろう。
続く
プロフィール

ちゃれんじぃ

Author:ちゃれんじぃ
毎日が色んなことへの挑戦だ!白杖への誤解や理解、日々のささいな出来事や感じていることを視覚障害者の視点からつぶやいています。アラヒフ世代・津軽三味線初心者・ジョギング・野球観賞・70年代フォーク&ロック・古きよき昭和をこよなく愛する全盲の伯父さんです。。

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